「似ている」ということ

新サーヴィスの☆は、賛否色々あるみたいですね。
自分でやってもつくのかなと思って2、3度クリックしてみたら、2、3個つきました(笑)
すごく感動したブログを読んだ時には、一人が何十個もつける、ということになるのでしょうか?
僕の前回のエントリーは、全然大した話ではないですが、妙にたくさん☆がついていて不思議です。
ただ、サーヴィスの意図は分かりますけど、気楽に書いてて、あんまり自分のブログを読み手の評価の対象にしたくない人は、イヤかもしれませんね。僕も、いいのか、悪いのか、まだよく分かりません。

ところで、相変わらずメジャーで大活躍のイチロー選手を見ていて思うのですが、最近、ますますというか、恐いくらい、顔が、お父さん(チチロー?)そっくりになってきてますね。↓

http://sports.nikkei.co.jp/news.cfm?i=2007071103305n0&t=mlb

お父さんの方は、あんまりメディアに露出しなくなりましたけど。

僕は、早くに父を亡くして、父の記憶は全然ないのですが、家族を始め、昔から父を知る人に、「そっくりだ」と言われ続けてきたので、「似ている」ということに非常に強い関心があります。これは、僕の文学的主題の一つで、何度か小説にも取り上げましたし、『決壊』でも重要な意味を持っています。

『葬送』で取り扱った画家のウージェーヌ・ドラクロワは、外務大臣のタレーランの隠し子だったと言われていますが、世間的には一応、シャルル・ドラクロワという人から生まれたことになっていました。ところが、社交界の人たちは、成長するにつれて、彼がどんどんタレーランに似てくるので、こっそり笑っていたようです。このエピソードは、面白いので小説でも言及しました。

「似る」というより、「似てしまう」というのは、なかなか単純な話ではないです。
連れ子が、散々DVをふるわれた挙げ句に別れた前の夫に似てきてしまうこともあるでしょうし、世間を震撼させた殺人犯の子供が、やはり父親に容貌が似てきてしまうこともあるでしょう。家族がどんなにその父親を忘れたいと思っても、遺伝によって獲得された身体的な特徴は、拒絶できない。良くも悪くも、絶対に自由にはなれないわけで、もちろん、不慮の事故で死んだ人間の子供が、成長とともに彼に似てくることは、家族にとっては一種の慰めになるでしょうが、子供はある程度は、家族が死んだ父親に対して抱いていた思いを引き受けざるを得なくなるでしょう。

人間が、生殖活動を通じて再生産される時に、「まったく同じではないが似ている人間」が生まれて来るというのは、見方次第で感動的でもあり、またグロテスクでもあります。
外見に関しては、この事実を否定する人は誰もいないでしょうが、性格的なこと、器質的なことはもっとデリケートな話でしょうね。
いずれにせよ、僕にはまだ子供がいないので、親になってみたら、見方も変わるかもしれません。

小説で、そうした「遺伝」現象の面白さを描いたものとしてすぐに思いつくのは、たとえば、マルケスの『百年の孤独』ですね。一方、「他人の空似」が非常に重要な意味を持っている小説としては、エリアーデの『妖精たちの夜』があります。
どちらも大作ですが、僕の好きな作品です。