恋愛と親子愛

気がつけば、もう2月。そして、今年に入って最初のブログの更新です。
『かたちだけの愛』は、お陰様で、たくさんの方に読んでいただき、色々な感想を聞かせていただいてます。
ありがとうございます!
初めての長篇恋愛小説、という謳い文句ですが、作品のテーマは「愛」です。特に、主人公の相良郁哉と叶世久美子(中村久美)との「愛」と、相良とその家族との「愛」は、比重としては、ほぼ同じくらいです。その二つの愛を同時に描きながら、恋愛であれ、親子愛であれ、いずれにも当てはまるような「愛」の定義を考えたかった、というのが、僕の意図でした。


30代半ばの主人公の愛を書こうとした時に、恋愛と親子愛とは、どうしても一緒に扱いたいテーマでした。
親子関係というのは様々で、うまくいっていれば何よりですが、そうでないことも勿論あります。
僕は同世代の人と話していて、うまくいかなかったという思いを抱えている人は、潜在的にかなり多い気がしています。


多くの人は、それでも普段は何事もなかったかのように生活しています。それはそれとして、自分なりに乗り越えていたり、あるいは本当に忘れていたりします。
それが、30代になって、社会的にも経済的にも、退職する親世代と力関係が逆転し始めると、実家の問題や介護のことなどを巡って、改めて、親と向き合い直さなければならなる。勿論、自分自身が家庭を持って、親の立場になる、ということもあります。
その時に、気にせずにいたはずの子供の頃の記憶が、意外な重さで蘇ってきて、心にわだかまってしまう。こちらがどんなに大人になろうとしても、親の方が理解してくれない、あるいは、昔のことなどすっりかり忘れてしまっている、それで今現在も、うまくいっていない。……
社会的、経済的に、定年を迎える親世代と、実際に立場が入れ替わっていればいいけれど、自分の生活もままならない状態でその年齢を迎えってしまう苦しさもあります。


僕が小説家として、先行世代から譲り受けたものの、まったくピンと来ない主題の一つに、「父殺し」の神話というのがあります。個人的に、僕の場合、父が早世していますから、実感が湧かないというのもありますが、そんな単純な神話では、今の時代、カタルシスを得られないのではないでしょうか。
社会が高齢化していくことはみんな分かってますし、私的にも公的にも、親世代との「和解」は必要です。それが不可能な時には、象徴的な「父殺し」などよりも、関係の切断という選択肢の方が現実的でしょう。
僕は基本的に、子供の側から話を聴いていますし、親の言い分もあると思いますが、いずれにせよ、30代半ばというのは、失われたはずの記憶に、「幻痛」のように見舞われるタイミングなのではないかという気がします。


幼少期の親子関係が、成人後の恋愛観に大きな影響を及ぼす、という話は、実感として分かります。しかし、そこに相互に影響を及ぼし合う「つながり」があるのなら、恋愛がうまくいくことが親子愛を修復させ、親子愛の修復が恋愛をうまくいかせる、という可能性はあるはずです。
そこのところの相関性は、論理的に説明するのが難しく、だからこそ僕は、それを小説を通じてしか表現できないのですが。
今回の小説で一番骨を折ったのは、その複雑な関係の線を、いかにきれいに描くか、というところでした。
一度目に読んだ時には、恋愛やデザインの話が目についたけど、二度目に読んだ時には、親子の話が心に残ったという感想を多く耳にしました。それは、作者にとってすごく嬉しいことです。


無論、大人の恋愛の問題が、何でも幼少期の親子関係に帰せられるわけもなく、久美子の家族の方は、むしろ至って平穏です。彼女の問題は、むしろ彼女という人間の「かたち」そのものです。