『顔のない裸体たち』、文庫化されました。


毎日、暑くてイヤになります。


秋葉原の事件以後、無差別殺人が続発していて、ニュースを見ると、暗い気持ちになります。
『決壊』でも書きましたが、この「連鎖」という現象に関しては、ネットというよりも、マスメディアのアナウンス効果の方が大きいと思います。小学校乱入事件が連日報道されていた時には、同じような事件が続きましたし、ネット心中や硫化水素自殺も同様です。といって、そうした事件については、一切報道すべきでないというのも非現実的な提言で、結局は、どういう報道の仕方が、アナウンス効果を最小限に留められるのかについて、地道な検証を繰り返しながら、考えてゆくしかないでしょう。マスコミ各社が、第三者を含む検討委員会を作って、この問題に特化した共通のガイドラインを作成することは意味があると思います。


どうして、こんな事件が起こってしまうのか、ということについては、直接の関連はないとはいえ、『決壊』を通じて僕なりの考えなり思いなりを書きましたので、手短に何かを言うということはできませんが、テロとネットの時代のアイデンティティという主題に関しては、僕自身は、web1.0から2.0という流れの中で、三段階を経て考えてきました。
最初は、「最後の変身」(『滴り落ちる時計たちの波紋』収録)で、引きこもりの一人の人間とネットとの関係を、次に『顔のない裸体たち』で、男女二人の人間とネットとの関係、そして、『決壊』では不特定多数の人間とネットとの関係です。いずれも、他者への破壊的な飛躍が主題化されています。


ネットが、印刷技術の登場以降の世界を劇的に更新したとして、それが結局のところ、人間にとって良いものなのか、悪いものなのかという議論の不毛さは、誰もが感じていることでしょう。しかし、ネットがアイデンティティとコミュニケーションに関する技術である以上、たとえば、ナイフという道具が良いものなのかどうかという議論がバカげている、というのと同じほど単純ではありません。
「ネットの暗部」という言葉がよく用いられますが、それが予測不可能性という意味で用いられているのでないとすれば、そのほとんどは、同じ紋切り型で返すなら、「人間の暗部」の表現に過ぎません。「人間の困難」というべきですが。小説家としての僕が、上記の三作を通じて書きたかったのは、「ネットの暗部」などではなくて、「人間の暗部」です。その描き方は、グロテスクだったり、滑稽だったり、物悲しかったり、と様々ですが。


『顔のない裸体たち』は、宮崎県庁の前で裸になって写真を撮っていたような人たちの話ですが、主人公の男は、明るいマニアたちとは違って、憎悪と性欲を通じてしか他者との関係を築けない人間で、そうした認識が、どんなふうにして社会一般に対する憎悪の階段を上っていくかというのが一つのテーマでした。


文庫化に当たっては、単行本の冒頭にあった、かなりエグイ場面を大幅にカットしました。あれでゲンナリして、肝心の主題にまで入り込めなかったという読者が多かったので。ただ、試みとして、今回は、2ヴァージョンを作ることにしました。hon.jpなどでダウンロードできるデータ版では、単行本と同様のノーカット・ヴァージョンが読めます。ご興味のある方は、そちらをどうぞ。


装幀は、その手のサイトの年齢認証ページをパロディにしていますが、冒頭のカットされた箇所以外にも、露骨な性的な場面が出てきますので、一応、お含みおきの上で、「enter」してください。
……と、せっかく書いたのに、まだ「NO IMAGE」でした。そのうち、アップされるでしょう。



顔のない裸体たち (新潮文庫)

顔のない裸体たち (新潮文庫)


滴り落ちる時計たちの波紋 (文春文庫)

滴り落ちる時計たちの波紋 (文春文庫)