絵画とグラフィック・アートの違い


どうも、ご無沙汰してます。
最近、「ツイッターばかりやってないで、たまには、ブログも更新して下さい!」と色んな人に言われます。すみません。。。
あまりに久しぶりなので、何を書こうかと考えていたのですが、丁度、コンセプター・坂井直樹さんが、僕が慶応SFCで講演した内容について、ブログで触れられてましたので、その話を少し書いてみます。


坂井さんのブログは、こちらです。

http://sakainaoki.blogspot.com/2010/10/sfc-40-hiranok-1975-httpd.html

僕の話の回以外も、毎回非常に面白いので、前後も読んでみて下さい。


で、話題は、絵画とグラフィック・アート(ポスターや本の装幀など)は、根本的に何が違うのか、ということです。


基本的に、絵画は額縁(フレーム)の外側にまで広がっていく世界、グラフィック・アートは、フレームの内部で完結する世界です。
坂井さんが例に挙げられている2つの作品を見ていても、これは感じられるでしょうが、より分かりやすい例として、僕がこの問題を考えるきっかけとなったロトチェンコのポスターを画像検索してみてください。

分かりやすいのはこれです。

http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/rodchenko/images/image-2.jpg


絵もポスターも、ある平面の全体を、色や形といった要素の配置で満たすわけですが、絵の場合、たとえば人間と地面と空を描く時、そのそれぞれの大きさの比率や向き、色には、自律的な秩序があります。描かれた世界には、有機的で、内的な必然的関係性が認められます。
たとえば、ミレーの『落ち穂拾い』を見て、どうして上半分を青ではなくて紫に塗らなかったのかとか、どうして真ん中の横線を波打たせなかったのかとか、どうして真ん中の人間の頭を、それぞれまったく違う大きさで描かなかったのかと、疑問に思う人はいないはずです。なぜなら、現実の世界で、空は青く、水平線はまっすぐで、人間の頭は、大体同じくらいの大きさだと、みんな知っているからです。


先ほど、画面構成に「内的な必然的関係性」が認められると書きましたが、それは逆説的な表現で、絵画の画面構成の必然性は、実際は、フレームの「外」にある世界そのものの秩序に依拠しています。描かれるのは、フレームがあろうとなかろうと存在している、世界のある一部分であり、そのトリミングの結果です。より正確に言えば、そうである「かのように」描かれています。だからこそ、絵画は、フレームを越えた広がりを持つのです。


しかし、グラフィック・アートは違います。
グラフィック・アートの画面を構成する要素は、個々に関連性を持たない、雑多な要素です。
まず、一番の違いは文字ですが、それとその他の色や形といった要素との必然的関係性など当然ありません。
坂井さんが例に挙げられているサイトウマコトさんの作品でもよく分かりますが、文字をあそこに、あの大きさで配置しなければならない必然性はありません。上でも下でも良かったし、真ん中でも良いのです。同様に、背景の色は、赤や黄色の可能性もあったし、新聞のカブトはもっと大きくても、小さくても良かったのです。あるいは、人形が斜めに傾いていても、ひっくり返っていても、別にいいのです。
では、なぜこのようになっているのでしょうか? それは、まず最初にこの長方形のフレームがあって、その四辺との関係性から、各要素の形と、面積の比率、配置が決定されているからです(この辺は、さっきのロトチェンコのポスターの方が分かりやすいです)。
それ故に、この作品の各要素の構成秩序は、フレームがなくなった瞬間に、必然性を失ってしまいます。新聞紙のカブトに対して、この大きさの文字というは、我々の日常世界では、特別な関係を持っていません。この画面構成が依拠すべき秩序は、フレームの外側にはないのです。だからこそ、グラフィック・アートはフレーム内の宇宙なのです。

ややこしい書き方になりましたが、単純に、絵を描こう、ポスターを描こうと考えてみれば、フレームが先か、後かは実感として分かります。


もちろん、古典主義絵画を例に挙げるまでもなく、絵だって、フレームとの関係で、描かれているものの大きさや配置が決まっているじゃないかと言うかもしれませんが、「各要素間の関係性」は、フレームとの相関関係だけでは決して完結しません。基本的には、フレーム外の秩序が大きく関わっています。


僕がこういうことを考えるようになったのは、今年の春に庭園美術館でロトチェンコ展を見た時です。
もともと、僕は、個人的にも親しい横尾忠則さんのお仕事に興味があって、絵画とグラフィック・アートは、何が根本的に違うのか、ずっと考えてました。もちろん、違いは幾らでもありますし、共通点を考える方がおかしいという人もいるでしょう。
それはともかく、ロトチェンコは断然、ポスターが素晴らしいのですが、実は絵も結構描いています。しかし、彼の場合、絵を見ていても、なんとなく、デザインっぽく見えます。それは、なぜなのかなと考えていたのですが、どうも彼は、絵を描く時にも、フレームから発想して構成を決定しているようです。


これとまったく逆なのが、カンディンスキーです。
カンディンスキーの絵は、どんなに幾何学的で、抽象的であっても、決してポスターには見えません。まさしく「絵」です。
抽象画をはじめた頃、カンディンスキーは、「なんでここに、この大きさで円を描いているのか?」とか、「なんでこの四角は、青く塗られてるのか?」と、散々、その必然性を質問されましたが、その時彼は、絶対に、「フレームが、こういう四角だから、全体の4分の1の大きさで、この円を描いて、……」というような説明をしませんでした。ロトチェンコなら、自作のポスターを説明するのに、当然、そう言ったでしょう。


カンディンスキーのユニークなところは、画面を構成する各要素の関係を、やはりフレーム外の根拠から説明しようとしたところです。それは、物理的な世界の秩序ではなく、人間の「心理」です。彼の「内的必然性」という言葉は、ここから出てきています(抽象画家がシュタイナーのような神秘主義に興味を持つのは、「心理」とはまた違った秩序をそこに見ているからです)。


有名な「抽象芸術論―芸術における精神的なもの―」だけでなく、是非、「点・線・面」をお読み下さい。
そこには、「水平線は、様々な方向へ平坦に広がりゆく、物を載せ、冷たい感じのする基線である」とか、「《左》に近づく―自由を求めて出る―のは、遠方を目指す運動」といった、線や面、点や色といった個々の画面構成要素についての人間の心理が、清々しいくらいきっぱりと(!)断言されています。
彼の完成期の抽象画には、一箇所たりとも適当な、即興的な要素がなく、全部、その必然的な関係性に於いて描かれているのです。だからこそ、彼の作品は、まさしく「絵」として、フレームの外側への広がりを感じさせますし、逆にロトチェンコのポスターとは違って、フレームとの相関関係で見れば、なんとなく、心許ない、不安定な感じを催させます。


非常に単純化した話ですので、むしろ絵画の方のフレームと画面構成要素との関係の説明に疑問を感じた方もいるとは思いますが、そういう方は、パノフスキーの『〈象徴形式〉としての遠近法』を読んでみて下さい。ダイナミックな弁証法が展開されています。


実のところ、こんなことを考えているのは、小説のデザインの問題につなげようとしているからなのですが、その話はまた、そのうち書くかも(?)しれません。
次はもっと早めに更新します。。。