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時々思い出すこと


今年はショパン生誕200周年というわけで、年明けからあちこちで色んなことに関わっていますが、『葬送』というと、今でも思い出すことがあります。


まだ文庫本が出る前でしたから、多分7年前くらいのことです。
とある女性から手紙をもらったのですが、その中にこんなことが書かれていました。
自分の夫はガンで、余命数ヶ月と宣告されている。その夫が、『葬送』が大好きで、残された時間をもう一度、『葬送』を読むことに費やしたいというので、大学生の娘と、毎日交代で、病室で朗読してあげている、と。
作家として、こんなに光栄なことはなく、勿論、うれしかったのですが、どんなに愛着のある自信作であったとしても、自分の書いたものにそれほどの価値があるのだろうかと、正直、深く考え込みました。ご本人の意志とは言え、もっと他のことに時間を使ってもらった方が良いのではないか、と。


今でこそ、ツイッターで読者とも気軽にやりとりをしますが、当時はそういうことがまったく出来なかったので、読者からもらう手紙に返事を書いたことはほとんどありませんでした。が、その女性には、お見舞いの手紙を書きました。


それから、数週間に一度くらいのペースで手紙をもらって、ご主人の病状などを伺っていましたが、最初に書かれていた余命の月日が丁度経った頃に、ぱったりと手紙は来なくなって、そのまま連絡は絶えてしまいました。


あれ以来、折に触れて、このことを思い出します。
小説というのは、自分にとって、あるいは人にとって何なのかと。
自分の書くものになんて、何の価値もないと言ってしまえば気は楽ですが、それでも人が、人生の中の、必ずしも無価値ではない瞬間に、読むかもしれない可能性を与えられているのが小説です。
死の間際であろうとなかろうと、一冊の小説が読まれるためには、誰かの人生の何時間か、何日かがそのために費やされなければならず、それに対して、責任を取るという考え方は必ずしも適当でないにしても、無頓着ではいられないと僕は思います。
この世に生まれ落ちた瞬間から、その後に生きる時間はすべて余命だと考えるなら、大げさな言い方ですが、小説はいつでも、読者の余命を費やすのに値するのかどうかと問われていることになります。他にもっと有意義なことがあるのではないかと。

勿論、小説家としての僕は、僕の小説を読むことが、ある人の人生に於ける最高の瞬間となるようなことを夢見ています。自分の小説を読んでいる時に、ファウストのように、「時間よ止まれ、お前はいかにも美しいから」と読者が心底感じるのであれば、それ以上、何をか望まん、です。
病床で、死を目前にしている人が、僕の小説を読んでいると知った時、ただありがとうと一言礼を言うだけで、何も心煩わされることのないような傑作を書くというのは、その意味で、一つの究極の夢かもしれません。が、その究極の夢を夢見ることには、どこかしら、破廉恥な感じもあります。


僕の中には、小説体験こそが人生の最高の喜びだと信じる一面と、人生には小説を読むことなんかよりももっとずっと重要なことがあるはずだと思う一面とが、常に矛盾して同居しています。
人生を凌駕するような小説を夢想しない小説家を僕は信じませんが、小説が人生を凌駕することに痛切な懐疑を抱かないような小説家も、僕は同様に信じません。
結局、読書に費やす時間とそれ以外のことに費やす時間との比率の問題ですが、余命が短くなればなるほど、両者は鋭く角を突き合わせるでしょう。


死の床にある人を、本当に慰めるような小説を書きたいとは、僕も思います。しかし同時に、小説家はそんなことを考えるべきなんだろうかとも思います。
今の僕の人生は、完全に小説とともにありますが、自分自身が死を目前に控えた時、残された時間で、誰かの小説を読みたいと思うのかどうか。あるいは、読むよりも書きたいと思うのか。


何の結論にも至らない話ですが、最近またよく考えることです。