安全保障の脱軍事化


一昨日、『真相報道 バンキシャ!』に出演した際にも言ったことですが、日本の首相は間接的ながら日本の有権者が選んでいる以上、内政に関しては、基本的には多数の「支持」を期待しつつ政策を進めていけるはずです。公約に従っている限りは。


しかし、外交問題は、当然のことながら、そうはいきません。アメリカ人や中国人が日本の首相を選ぶのではない以上、日本の新首相がこんなことをしたいと言ったところで、彼らがそれを受け入れなければならない理由はありません。問題の解決には、否応なく時間がかかります。
ダラダラやるべきではないですが、内政問題と外交や安全保障の問題との間には、解決のスピードにどうしても差が出るのが現実です。これは、たとえ今後、どんなに政治システムが変わって、最近よく議論されているように、ネットを活用した直接民主制的なものが実現されたとしても、国家が単位である以上は同じです。『ドーン』で「プラネット」というメタ国家を登場させたのは、そういう問題意識からでした。


沖縄の基地問題には、内政と外交との両面がありますが、内政問題を扱うスピード感で、外交問題まで解決しようとしたのが、今回の失敗の大きな原因でした。政権運営に慣れてないというテクニカルな問題にも見えますが、そのギャップを、旧態依然とした解決法で強引に埋めようとすれば、反発が起こるのは当然です。


大体、東アジアの安全保障のためにアメリカ軍のプレゼンスが欠かせないという理屈を、今、どの程度の人が納得してるんでしょうか?
安全保障の議論になると、専門家はすぐに、軍事的なシミュレーションを始めますが、ある国がどこかの国を攻撃するかどうかというのは、基本的には「損得」の問題です。攻撃して、得をするのか、損をするのか。その際に、相手国の軍事力を過大に評価するのは間違っています。


僕は二つのことを考えます。
リーマン・ショックのみならず、昨今のギリシア・ショック、スペイン・ショック、ハンガリー・ショックを見ても明らかなように、今の世界には、金融を中心に、極めて密に、複雑にリンクが張り巡らされていて、どこかの国が経済的な危機に陥れば、世界中の経済がガタガタになるという状況です。そういうグローバル化の時代である以上、日本は、日本の危機が、すなわち世界全体の危機であるような地位を維持し続けることこそが、実は最大の安全保障になるわけです。
日本の被害は、必ず世界中に「拡散する」という状況こそが重要です。


もう一つ、日本は今後、移民や外資の企業などを通じて、これまで以上に多くの外国人を受け入れていくことになるでしょう。
仮に、東京にミサイルが一発落ちれば、日本人だけでなく、アメリカ人も、中国人も、ロシア人も、ブラジル人も、分け隔てなく死にます。日本一国の問題ではありません。幾らアメリカが、日本の有事に興味を失ったとしても、アメリカ人が日本で山のように死んでいる姿を、YoutubeUstreamなどで、連日見せつけられれば、世論も黙っていません。アメリカは当事者になります。重要なのは、そうした日本国内の国際性です。


この二つの状況は、抑止力として十分に意味をなします。
今の世界は、外に対してはリンクを縦横に張り巡らせ、内には雑多な要素を飲み込んでゆくというのが基本です。国家もまた、純粋で、孤立的な存在であることなど不可能です。
そういう時代の安全保障にとって、軍事力よりも、経済的、文化的交流の方が有効であるというのは、火を見るより明らかです。


この10年で、世界はかなり変化しています。古臭い固定観念を捨て、我々は今後、どういう世界に住みたいのかということを、大きな理念として考えてみるべきです。
相変わらず、軍事的な均衡によってしか平和を維持できない世界が望ましいのか、それとも、ネットワークと雑種化を通じて、安全保障の脱軍事化が実現された世界を求めるのか。


グローバル化による一蓮托生のカタストロフは、「悪夢」である以上、それを回避するための合理的行動を、平和の維持のプログラムに組み込むことは可能なはずです。