小説のreadability/enjoyability

友達の江島健太郎が、CNETでまた、ポレミックな話を書いています。http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/004436.html
最近は、プロヴォケーションもやや大人し目でしたけど、今回は、これでもかというくらいやってますね(笑)
内容も、なかなか面白かったんですが、自分の仕事に引きつけて読むなら、次の一節に関心をそそられました。

ひとつだけハッキリ言えるのは、ユーザビリティ(=ユーザ満足)を軽視する企業は、製造業であれ、銀行であれ、小売りであれ、サービス業であれ、必ず最後には「緩慢な死を迎える」ということです。そして、「使い勝手」に関するユーザの声というのは、作る側でも上司を説得するのが難しいように、ユーザから企業に伝わりにくいものなのです。

考えさせられますね。
ブログの中でもこの「ユーザビリティ」の内容を巡っては、ちょっと泥臭い議論になっていて、確かにそれは主観的な領域だし、なかなか、「何が満足か」というのは難しいところですけど、ただアクセントを「軽視する」の部分に置けば、要するにアティテュードの問題なわけで、それはそうだろうと多くの人が同意すると思います。
そして、こういう発想は、間違いなく、小説の読者の中にも広がりつつあるということを、僕は実作者としてヒシヒシと感じています。
芸術は芸術。唯我独尊で進め!という考え方もありますし、それはそれで必要なことですが、現実問題として、いわゆる「純文学」(そういうカテゴライズは、最早気恥ずかしいですけど、要するに「新潮」や「群像」、「文学界」、「すばる」などに掲載されている小説群です)は、他ジャンルの小説の圧倒的な商業的インパクトの渦中にあって、まさしく今、「リーダビリティを軽視する作家は、必ず最後には『緩慢な死を迎える』」という状況に置かれています。
更に、映画やゲーム、ネットその他の娯楽を含めると、「エンジョイアビリティを軽視するジャンルは、〜」とも言えるかもしれません。

小説の場合は、それこそ「何が満足か」というのは、ますます難しい問題ですから、このアナロジカルな理解には飛躍があるとは思いますけど、個人的に、20代後半にかなりコンセプチュアルな作品を色々と書いてきた身としては、その辺のところは、30代の仕事の上での一つの課題かなと思ったりしています。
『決壊』で既に、その問題意識を実践しているところなのですが。

漢字が難しくてイヤになった、というのは、とりわけ僕の最初期の作品について散々言われてきたことですが、日本語の肥沃な可能性が、そちらの方面に拓けていることも間違いなく事実です。しかし、その可能性の追求が、読者に対しては、必ずしも「優しくない」というのも事実です。
作家としては、これまで通り、色々なことを試みていきたいとは思っていますけど、readabilityの問題は、僕なりに謙虚に受け止めています、今は。それに背を向ける勇気も、たまには必要ですが。