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『滴り落ちる時計たちの波紋』(文春文庫)、6月5日発売!

『滴り落ちる時計たちの波紋』の文庫版が発売されます。
解説は、今回は政治学者の苅部直さんにお願いしました。

収録作は九作で、どれもまぁ、オススメですが(笑)、特にとなると、「最後の変身」と「初七日」ですかね。
前者は、僕の作品の中では、同世代の読者からの共感が一番多く寄せられたものでした。
「自分らしさとは何か?」というような問いかけに、散々苦しんできた僕の世代の人間の「声」を、なんとか、小説の形にしたかったというのが、執筆の動機です。この作品は、近々フランス語訳が出ます。
「初七日」は、この第二期の短篇群の中ではもっとも「小説らしい」作品ですが、自分としては、そういうスタイルはこの一作で十分だったと感じています。ある意味では、『葬送』と『決壊』とを繋ぐような作品ですね。戦争と語り得ぬもの、生き残ってしまった人間、父と子、兄弟、など、重たいテーマを扱っています。

この短篇集も、『高瀬川』や『あなたが、いなかった、あなた』と同じで、よく「実験的」と評されるんですけど、僕はこの「実験」という言葉が好きじゃないんですね。読者がそういう感想を持つのはもちろん自由ですけど、出版社には、もうその言葉はやめましょうと最近は言ってます。

「実験」という言葉は、野心的というより、なんというか、古くさい感じがしますね。どうしてもパフォーマティヴな面が強調されすぎてしまって、とりあえずやってみたというような、未完成品のような印象を与えてしまいます。
文学に限らず、音楽でも、建築でも、映画でも、クリエイティヴな表現者は、当然のように、一作ごとに様々な主題とスタイルとを自由に試みるものですが、どのジャンルでもそれをイチイチ「実験的」などとは言わないと思います。
この業界の保守性の裏返しではないですかね、そういう表現をするのは。

僕のこういう仕事に対して、「奇を衒っている」という意見もありますけど、僕の発想は逆なんです。「奇を衒う」までもなく、時代が変わって、人の考え方も変われば、生活環境も変わっている。当然、小説の取り扱う主題も変化しているし、複雑多岐に亘っている。それをどうにか表現しようと思えば、スタイルだって変わらざるを得ない。その時に、150年も昔の小説のスタイルにあえて固執しなければならない理由が僕には分からないんです。
「既視感がある」という人もいますけど、「既視」を感じさせる部分がまったくない作品なんて、この世の中にあるはずがないし(あると断言する人は、単にそのジャンルに対して無知なだけです)、要は作品の系譜や影響関係、パロディ性、批評的な更新点などを、全部暴力的に押しつぶして、過去の作品と同一視してしまうかどうかでしょうね。

もちろん、読者あっての作家ですから、発表後の反応から、こういうスタイルはやっぱりなかなか難しいなとか、これなら意外とイケるのかな、とか、経験的に分かってくることはたくさんあります。
作家もまぁ、日々是精進ですよ。