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小説は常に『あなたが、いなかった、あなた』?

前回のエントリーは、映画を見終わった勢いで書いただけに、読み返すと、色々と不備もありますけど、堅い内容の割に反響もあって、うれしかったです。トラックバックやブックマークを通じてのコメントも興味深いものが多かったので、そちらを未読の方は、是非あわせてお読みください。

巧みに生きるか、善く生きるかは、確かに常に二項対立的という訳ではないと思いますし、両立できれば言うことなしですが、日常の何気ない行為の中でも、両者がどうしても対立してしまう機会はやっぱりあると思います。僕が今回、特にそれを意識したのは、単純に、体制に逆らうことなく巧みに生きていくことと、それに逆らってでも善く生きるということとが、先鋭的に対立していた旧東ドイツを舞台とした映画を観たせいですが。

映画を観るときにもそうですが、本を読むときにも、その作品の背景(「善き人のためのソナタ」の場合、冷戦下の旧東ドイツ)を重視して、そうした状況下であったからこそ、登場人物たちはこのように考え、行動するのだとする見方と、そうした背景はともかく、その主人公の立場にすっぽり自分を当てはめてしまう見方との二つがありますね。更にメタ次元から、何で作者がこんな作品を制作しなければならなかったのかを考える見方もありますが、それはまぁ、置いておきましょう。

僕はこの二つの見方は、どっちも必要だと思います。前者だけだと、作品はどこか、自分の外側にあるというか、鑑賞はしても体験はできない感じがします。ただ、後者だけだと、作品の持っている重要な主題を、幾つかすっかり見落としてしまう可能性はありますね。「善き人のためのソナタ」は、最初は前者のような感じで見ていたのですが、途中から、前のめりに、けっこう後者のように見てました。

僕は今回の短篇集に『あなたが、いなかった、あなた』というちょっと変わったタイトルを付けたんですが、これもまた、どっちかというと、この後者の立場に立った意味です。このタイトルは、漢字で書くと、『貴方が、いなかった、彼方/貴方』となります。後ろの「あなた」は、二重の意味なんですね。

僕は、普段他の人の小説を読むときには、その世界と登場人物とを自分自身で体験しながらページを捲ります。その意味で、どんな小説でも、それは「あなた=読者」がいなかった、しかし、いてもおかしくなかった「どこかの世界=彼方」であり、「あなた=読者」がいなかったために、代わりに他者である登場人物が経験した人生であり、つまりは他者=貴方であるわけです。そして、「読む」という行為を通じてこそ、読者は、そのいなかったはずの場所に、その人としていることが出来る。……と、まぁ、そんなような意味合いを込めて、僕はこのタイトルを考えつきました。

因みに、収録作は、以下の通りです。

1.やがて光源のない澄んだ乱反射の表で……/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵
2.鏡
3.『フェカンにて』
4.女の部屋
5.一枚上手
6.クロニクル
7.義足
8.母と子
9.異邦人♯7-9
10.モノクロウムの街と四人の女
11.慈善

これで、『高瀬川』以降、書き続けてきた短篇全25作が完成です! 
僕のキャリアの第二期=短篇創作期もひとまず終了です。