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巧みに生きるか、善く生きるか、……

公開時の宣伝用に何かコメントをもらえないかと、『善き人のためのソナタ』という映画のDVDが配給会社から送られてきて、週末に観たのですが、これが本当にいい作品でした。
詳しくはこちらをどうぞ。

http://www.yokihito.com/

内容は深刻ですが、がんばって見なきゃいけないという感じがなくて、色々なことを考えているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいます。その意味でも、見せる技術が高い映画だなと感心しました。

この映画のテーマは、僕なりにザックリと解釈すれば、「人は巧みに生きるべきか、それとも、善く生きるべきか」ということです。これは、決して冷戦時代の旧東ドイツに限ったことではなく、現代の僕たちにもそのまま当てはまる非常に大きな問題だと思います。

個人的に、この問題について意識的に考えるようになったのは、今月末発売の『あなたが、いなかった、あなた』に収録されている「『フェカンにて』」という短篇を書いてからです。
ウェブ人間論』の対談をしていた時にも考えていたことですが、人間は、自分の属している社会のシステムと否応なくつきあいながらどうにかこうにか生きているわけですが、そこで、「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないかという気がします。それは直接には、僕自身を振り返ってみてのことですね。
僕は、これまでの人生で、結構「上手に」生きてきたなという感じがしています。経歴からしてもそうですし、対人関係についても、総じてそれほどのトラブルもなく過ごしてきました。別に、そのために権謀術数を巡らせて、人を欺してきたわけでもなんでもないんですけど、そうだとしても、というか、多分そうだからこそ、何かの拍子に、自分は巧みには生きている、けれども、善く生きているんだろうかという疑問に深刻に見舞われる瞬間が、どうしてもあります。この感じは何なんだろうなとよく考えます。

「『フェカンにて』」は、「高瀬川」と同じで、「大野」という名前の、容易に僕と同一視され得る登場人物が出てきますが、私小説というよりは、むしろ、大江健三郎氏の「長江古義人」三部作みたいに、経歴その他、作者の僕から借用できる部分をそのまま利用しつつ、書いたという小説です。そして、この「巧みに生きるか、善く生きるか」というテーマは、主人公の自殺を巡る思考に沿って、展開されます。これは、「新潮」を読んでくださっている方はすぐにピンと来ると思いますが、そのまま、『決壊』の中でも、主に「沢野崇」という登場人物において受け継がれています。

それにしても、この問いかけは、それ自体としては非常にすっきりとした形で立てられるわけですが、結局のところ、「善く生きる」というのが、どういうことなのかは、本当に難しいですね。僕は、「責任」の問題を考えることで、そこにアプローチしたいのですが。
今の世の中は、こういう世の中だと認識し、完結した形でそれを語る。そうすると、主体として外からそれに関わる人間は、自分の責任を「任意に」放棄できる場所を意識的に、あるいは無意識的に作ってしまうわけです。これは、「歴史に翻弄される」というような表現でも同じことですね。
しかし、その認識、あるいは語りの結び目に自分自身を置けば、それが決して完結しきれないことが分かります。「責任」の問題が始まるのは、そのギリギリの地点じゃないかと思うのですが、まだよく考えがまとまってません。が、「巧みに生きる」ことと、「よく生きる」こととの対立の要がそこにあることは、何となく分かります。

難しいことを書きましたけど、極単純な例で言えば、あまり尊敬できない方法で金持ちになっている人を見る時に、社会が感じる反発の中身は、この人は、今の世の中を、確かに巧みには生きているけど、善く生きてはいない、といったものでしょう。あるいは、イジメを見て見ぬふりをしてやり過ごすというのも、巧みではあるけれど、善くはない生き方だと言えます。
僕は、前者をシニカルに肯定するのがイヤなんですが、保守反動的な立場から後者の側に経つのもイヤなんですね。「美しい国」がどうしたこうしたという話を耳にすると、本当に、なんというか虫酸が走ります。

「死」というのは、いつでも僕の文学の一番のテーマでしたけど、そこから翻って、今は「生きる」ということについて、もっと考えたい気がしています。そうすると、どうしても、こういうところに考えが行ってしまうのですが。……

巧みに生きる、ということについて言えば、梅田さんがいみじくも「サバイブする」という言葉で表現したように、今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎているんだと思います。ITに関してもそうだし、経済にしてもそう。もちろん、対人関係も。
充実した人生を送るためには、まず、生きるということに関して「技術的に巧み」でなければならない。生きること自体の技術的難易度がものすごく上がってしまっている。そうすると、そのことが自己目的化して、「より巧みに」という競争が生じるわけです。その結果、一方では巨万の富を得る人が出るし、他方では引きこもりになる人が出る。
もちろん、そういうことは、いつの時代にもあったんだろうと思いますが、実感として今の世の中に対してすごくそれを感じますね。