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続カタカナ表記

 トラックバックを見て、Danさんが、以前、江島健太郎とcnetでやりとりした時にコメントをくださった方だと今頃気がつきました。

 「新潮」11月号から始まる長篇『決壊』の連載第一回目のゲラを見直しながら、カタカナ表記問題をまた考えてしまいました。どうも、僕の発想には、小説を書くという習慣から来ているものもあるようです。
 作品を書くと、最後に校閲をするのですが、その際、表記について、例えば、「はなした」、「話した」など、平仮名と漢字とが場面によって混在している場合には、統一するか、そのままにするか、という方針の確認があります。僕は、どちらかというと統一したい気持ちが強いんですね(今回の作品では、むしろ、場面ごとに不統一のまま残そうかとも考えているのですが)。そうすると、カタカナ表記の際に、vの音を、「ヴ」という表記で統一したい気持ちに駆られます。これは、rの音を機械的にラ行に対応させているのと発想としては同じです。「テレヴィ」も言ってみれば、そこから来てます。
 しかし、そうした作品内の統一という観点から離れれば、日常で使用される言葉の表記は、前回も書いたように、かなり恣意的にバラバラであって、しかも、そのバラバラさが一般には「自然」と感じられている。作家として、言葉については、こう書いてはどうかというのを書くものを通じて提案していくわけですが、その際に、読者の現時点での違和感とどこで折り合いをつけるかというのは、難しいことですね。しばらく続けて、反応を見ていくしかないのでしょう。「テレヴィ」に対する拒絶反応は結構あって、だったら「テレビ」でいいかなという気もしますが。別のブログでも「ベートーベン」について書かれている人がいましたが、元々の発音をそのままカタカナで表現することはやはり出来ませんから。

 個別の表記はともかく、日本人がカタカナ表記をする際の傾向みたいなものには、確かに、単に元の発音からは遠いということだけでは否定しがたい「意味」がありますね。たとえば、pageが「ペイジ」ではなく、「ページ」であるように、日本語自体には二重母音の単語が多いはずなのに、ヨーロッパ系の言語を輸入するときには、どうもその二重母音を嫌う傾向があるようです。「テイブル」ではなく「テーブル」とか、「ロウプ」ではなく「ロープ」とか。僕はこれが、一時代の恣意的な感覚で、そのうち、変わるんじゃないかという気がしていて、あえて二重母音を明確にした書き方をしていますが、そっちの方向に言葉が発展していくかどうかは分かりません。特に、検索エンジンの登場で、「テイブル」では引っかからないとなると、今現在の表記法が固定されていく可能性はあります。

 Danさんがおっしゃってる日本語内にカタカナが溢れかえっているのは、結局、言葉の輸入者が不特定多数になったからでしょうね。森鴎外がドイツ語の医学書を翻訳する、ということがはっきりしていた時には、その鴎外が責任を持って対応する漢字の言葉を探したり作ったりしていたわけで、医学生はみんなその本で勉強するから、それが定着するわけです。

 中国では、外来語の漢字化がすべての言葉について行われていて、「電脳」もそうじゃないでしょうか? 日本は結局、漢字文化は、中国から輸入するしかないんですかね。。。