カタカナ表記について

 前日のブログで、「テレヴィ」と書いて、さっそく、「なんだそりゃ?」というツッコミを受ける。
 僕は小説の中でも、よくこの表記をしていて、これまでにも色々言われてきたが、やめません(笑)。
 小説だと、例えば、大江健三郎氏なんかも、「テレヴィ」と書いてますね。
 まったくの邪推だが、「テレヴィ」が何時までも「テレビ」なのは、「日本テレビ」とか、「フジテレビ」とかが社名ごと変えなきゃいけなくなるのがイヤで、読売も産経も「テレビ」のままなのではないかと思ってみたり。しかし、邪推です。

 そんなことじゃなくて、「テレビ」はもう、日本語として定着しているじゃないか、じゃあ、「ラジオ」はどうなんだ? 「レイディオ」と書くのか? と言われると、確かに微妙。小説の中で、「レイディオを聴いた」と書くのは、さすがに抵抗がある。しかし、それならどうしてRadioheadを、みんな「ラジオヘッド」と書かないのだろう? そういえば、昔、徳永英明の「壊れかけのRadio」という曲のサビが、「こわれ〜かけの〜ラディオ〜」という、絶妙に微妙な(?)発音で歌われていて、話題になったことがあったっけ。rの発音は違うけど、、フランス語読みみたいな感じ。あれも、多分、「レディオヘッド」と同じで、「ラジオ」じゃカッコ悪いけど、「レイディオ」はやり過ぎだろうという、その間を取ったのでしょう。それはそれで、雰囲気もあったし、別にいいと思うけど。

 僕自身は、「定着している」というような話はあんまり信じない。「ヴァイオリン」だって、昔は「バイオリン」だったし、僕が中学一年の時、「ベストヒットUSA」で、VAN HALENの特集が組まれた際には、ラテ欄には「バン・ヘーレン特集」と書かれていた。ロック・ミュージシャンつながりで言うと、ツェッペリンジミー・ペイジは、Jimmy Pageだから、1ページ、2ページのpageと同じ発音だけど、誰も「ジミー・ページ」とは書かない。
 ……と、まぁ、かなり恣意的なわけで、その恣意性は、単に新聞や雑誌といったマスメディアが(「メジア」とは書きませんな)、割と近い過去に勝手に作った基準に従わされているというだけのことなんだと思う。これは、「拉致」ではなく「ら致」とか、漢字のヘンな表記にも言えることだけど。

 僕の印象では、これから少なくとも、今より多少は英語がうまくなっているだろう日本人は、英語のカタカナ表記にもう少し敏感になっていくんじゃないかな。因みに、明治大正の頃の作家は、語学が出来る人が多かったから、意外と元の発音に近いカタカナ表記をしてます。今の表記の「定着」の歴史も、極浅いものだと思う。

 ……ああ、これからもうちょっと、話が深まるはずだったけど、なんか長くなってしまったので、続きはまたそのうち。
 ブログ・リテラシーが低いなぁ、まだ。。。