刊行から一ヶ月を経て

 『顔のない裸体たち』の刊行から一ヶ月ほどが経ちましたが、もうお読みいただけましたでしょうか?
 まだの方は是非!
 例によって、賛否両論色々ですが、僕はそれを健全なことだと思っていますし、だからこそ、小説としては、まぁ、成功してるんじゃないかと、ちょっとほっとしています。読後の感想が割れない小説というのは、つまらない作品なんだという考えが、僕の中には根強くあります。
 僕は、小説家としてかくあるべし、という拘りはあまりなくて、鴎外が、小説というのは何をどんな風に書いてもいいんだと言っていた通り、出来るだけ色々なことから自由でいたいと思っていますが、それでも唯一あるとすれば、「誤解されることを恐れない」ということです。「誤解されてもいい」という開き直りはよくないですし、出来るだけ、理解されるように書いているつもりですが、それでも、書きたいことを書き、言わねばならないと思うことを言い続けるためには、何時も護符のようにこの信念を胸に抱き続けていることです。

 刊行後、またたくさんの取材を受けましたが、作品とは別に、そうしたインタヴュー記事から誤解を受けていることも多い気がしました。もちろん、インタヴューは、取材者の仕事ですから、彼らが興味深いと思った点を特に強調して記事にすることは正しいのですが、結果として、必ずしも僕の真意を反映したものとはなっていないことも間々あります(他方、取材者のまとめ方のお陰で、要点が整理され、僕自身の言葉よりもよく読者に伝わるということもありますが)。そんなことを考えていた時に、ちょうど、「新潮」誌上に掲載された梅田望夫氏との対談について、旧友の江島健太郎氏が、CNET JAPAN BLOGに感想を書いてくれ ましたので、彼への返事がてらコメントを寄せてみました。僕がインタヴューの場で実際に話しているのは、大体、こういうような内容です。一応、下にも貼っておきます。

 梅田氏との対談は、『顔のない裸体たち』刊行後の色々な活動の中では、最も有意義なものの一つでした。
 まだ、前編が掲載されているだけなので、来月刊行される「新潮」掲載予定の後半も楽しみにしていただきたいのですが、個人的には、実に色々なことを考えさせられました。江島氏へのコメントは、その中で些か舌足らずであった箇所の補足にもなっています。

 実は、丁度韓国で開催されていたSeoul Young Writers Festivalというのに参加して、どうしても外せない予定があり、他の参加者より一足先に帰国したところなのですが、これまたなかなか有意義でしたので、そのうち、ここか、どこかの紙媒体ででもご報告します。

2006.5.10

平野啓一郎

                                            • -

 どうも、感想ありがとう。
メールでも書こうかと思ったけど、せっかくなんで、ここにコメントを書くことにしました。
 梅田さんとの対談は、ご覧の通りで、個人的には非常に有意義でした。僕は必ずしも、必要以上にネット社会をネガティヴに捉えているわけじゃないけど、対談だから、まぁ、ある程度、争点を鮮明にした方がいいからね。取り分け、ネットの明るい未来については、梅田さんがかなり強い態度で肯定的に語っているので、僕としては、どっちかというと、問題点を強調する立場に終始しました。

 よく分かってるとは思うけど、なんと言っても僕は作家なので、やっぱりどうしても、「有益」性という観点から一元的に物事を見られないんです。梅田さんの分類で言うと、ネット社会の三層ほどに分かれるであろう言説の階層の最下層というのは、「有益」性という意味では、無視されてしかるべきものとして、つまり「ないもの」として処理されるわけだし、「無益」どころかしばしば「有害」なわけだから、抑圧されるべきものなんだろうけど、僕はその三層は別々の人間たちがそれぞれに担っているわけじゃなくて、どんな人間の中にも内在している階層なんだと思う。そのどの部分で人とコミュニケイトしているか、したいと思うか、出来るか、ということなんじゃないかな。
 社会の変容に対して反動的な、保守的な立場からものを言うことはイージーだし、その手の本はバカウケしてるけど、僕は嫌悪しています。だけど、ある人たちが、端から見れば「無益」であり、「有害」であるとしか思えないような言葉を通じてしか、人とコミュニケイトできないところに落ち込んでいるという状況に対しては、たとえ彼らの言葉が、時にどんなに僕個人に対して敵対的であったとしても、捨て置けないという気持ちがやっぱりあります。これはキレイ事じゃなくてね。
 江島もそうだけど、僕はオウム事件があったときに、京大にもかなりの信者がいたという事実に結構ショックを受けて、その時にも同じようなことを考えました。つまり、自分とは関係のない連中のことだと無視するか、自分の問題として引き受けるか。で、僕かは必ずしも義務感からというわけではなく(なにせ、「日蝕」みたいな小説を書いてたんだから)、その問題を同世代の人間として、自分のこととして真面目に考えたいと思いました。

 ネットの世界の概観に関しては、僕も梅田さんも、大して見えている風景は違わないと思う。江島が、社会の鏡像をそこに見ているのも、ある程度、正しいと思う。「最後の変身」では、ネットも結局、社会だからこそ、主人公は失敗することになるわけだから。だから、あとはまぁ、その見えている世界に対するアプローチと役割の違いだけじゃないかなと対談をしていてつくづく思いました。僕は別に、社会の「進化」(しかし、「勝ち組」、「負け組」という例のお粗末な社会ダーウィニズム的な発想と同様、この19世紀的な言葉の今日における生々しい強度は一体何なんだろう?)の足を引っ張ろうとしているわけでもなんでもないし、シニカルに言えば、そんなことが出来るとも思っていない。だけどどう考えても、その単純なイデオロギーが、社会の複雑さをあまねくカヴァー出来るわけないんだし、要するに視点を複数化したいというそれだけのことなんです。
 梅田さんが、もともと「ウェブ進化論」を書いて、人々がそれに快哉を叫んだのは、日本のネットに関するジャーナリスティックなジメッとした言説空間に、別の新しい光が差し込んだと感じたからだと思うけど、それで今度は、そっちの方に一気に針が振れるのであれば、同じ間違いだと思う。今回の対談で示した通り、身も蓋もない言い方だけど、ネットの世界にはどっちの現実もあるし、もっと別の見方もあるでしょう。その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。その「複数性」というのが、ここ数年の僕の創作の根幹だけど、「何がしたいか分からない」という一言で片づけられることも多くて、まぁ、なかなか難しいもんです。だけど、この作家は何時もこういう作品を書いていて、だからこういう人間なんだという、そういう怠惰で、粗雑な人間理解の枠組みに自分を落とし込んで、何が読書の楽しみなんだろうと僕は思う。そこには厳密な意味で他者は存在しなくて、単に自己の鏡像があるだけじゃないのかなと思います。

 江島が「ネットは社会」だというのは、よく分かるけど、でも、厳密に言えば「近似だ」くらいでしょう?ボディ・コンタクトがないこと一つとっても、大きな違いなんだから。その差異にフォーカスするかどうかだけど、しかし、どんな時だって、差異にフォーカスしなければ、両者の正確な姿はつかめないし、何が今、新しく起こりつつあるのか、分からないんじゃないかな。

 僕はネットが主体を二分しつつあるというモデルに固執しているけれど、これは僕自身の今の世界観じゃなくて、そうした一種の思想的な退行が社会に見られることへの危惧の表明なんです。「見かけ」と「本質」というのは、ソクラテス派以来の問題設定だけど、二十世紀の形而上学批判を経て、僕らの時代には、もう「本質」という言葉は不可能だ、というところまで来ていたはずでしょう? ところが社会では、恐ろしいほどに、今、「本当の」という言葉が氾濫している。「本当の自分」、「本当の幸福」、「本当の社会」…。僕は、これがどうしても気になるんです。
 僕が文学に興味を持つようになったのは、三島や初期のトーマス・マンあたりからだけど、それは、彼らの描く内面と外面、芸術家(犯罪者)と市民社会、というまさしく二元論的な図式が、当時の僕には非常に切実に感じられたからです。
江島は、僕のことを個人的に知っているから、何となく想像できると思うけど、僕は必ずしも社交的ではないけど、割とそつなく人と交われる方で、それは十代からあんまり変わってないんです。だけど、中学、高校時代と、僕はずっと、今の言葉で言えば、敏感に「場の空気を読んで」、うまく人とコミュニケイト出来る一方で、自分の中には、そんなスムーズな対人関係には収まりきれない、いろんなろくでもない考えや、役にも立たない思いが満ちあふれていると常に感じていました。社会的に有用である、ということに、どうしても自分のアイデンティティを全的に賭することが出来なかった。そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分だと感じていたし、それをやっぱり表現したかった。それがまぁ、作家になった一番の動機です。
 それで、僕は今、小説を書いていて、本当によかったと思う。僕は、親類や友人を含め、小説を通じて、初めて自分という人間を、十分に理解されつつある気がします。注意深くあえて書けば、それは「本当の自分」なんかじゃなくて、要するに、自分という一個の人間の複雑な組成、「複数性」を理解されつつあるという感動です。それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。僕はやっぱり、意識の有無に拘わらず、「普通の人」として社会的な人間関係に自分を結びつけるために、その多くの部分を日常のコミュニケイションから削ぎ落としていたと思う。今はその部分の存在を、僕も相手も、一種の前提としてコミュニケイト出来ています。

 だからこそ、僕は今、ブログの匿名性を、一種の「自己嫌悪的な」執拗さで批判しているんです。そうして自分を、社会的な自己と、ネット上の自己とに分けて、しかも、後者をこそ、誰にも気兼ねなく、今日会った人の陰口だのなんだのを好きなように言える「本当の自分」だと考えるような生き方は、結果、日常の社会生活をますます希薄化させてゆき、他者からの理解を遠ざけてしまうんだと。
僕は、梅田さんが「有益な」ブログに注目するのと同じ程度の強い関心で、個人の身辺雑記的な「無益な」ブログに注目しています。それは、それらの言葉が、社会生活から排除されて、行き場を失った言葉の堆積場所だからです。それは、僕も含めた誰もが抱え込んでいるものでしょう。だったら、そういうブロガーの生き方を云々するんじゃなくて、それを強いる社会自体を批判すべきだと人は言うだろうし、最終的にはそういうことになるんだけど、しかし、漠然と社会を批判して、そこに巻き込まれている個人に非はないという語り方は、社会を絶対に変えないんだな、残念ながら。やっぱり、個人の生き方を問題にして、「だけど、それは社会がこうだからじゃないか!」と怒ってもらわないと、人は真剣に考えないものだと思う。だから、「登場人物」なる不思議なエレメントからなる、小説なんていうエクリチュールのジャンルがあるんだと思います。

 そういう意味では、僕はもっと、梅田さんも言ってたみたいに、mixiとか、自分の周囲の友人知人にはブログの存在をdiscloseしている人たちについては、肯定的に語るべきだったと思います。彼らは、より深い人間関係を獲得していくんじゃないかな。僕にとってのネット社会の明るさは、そっちの方に開けている気がします。だけどそれは、厳密に言うと、匿名じゃないからね。僕が散々言っているように、それは主体が、日常の社会と連続してるんです。僕が問題にしているのは、あくまで、そこを切断しようとする傾向です。

 なんか、長くなってしまいました。
 僕は何時も、不特定多数の人に向けて語ろうとする分、どうしても議論の力点が分散しがちだから、あえてまるで、私信のように書いてみました。
 まぁ、そのうち、飲みにでも行きましょう。
 「新潮」の次回もお楽しみに!
 「顔のない裸体たち」も、enjoyしてくださいな(笑)

 平野啓一郎

Posted by hirano keiichiro at 2006年05月11日 11:27