身体と道具

人間の体と道具との関係について、メモがてら、書いておきます。


『かたちだけの愛』では、義足が大きなテーマになっていますが、義足は果たして、道具なのか、身体なのかということを、最初はやはり考えました。


道具というのは、基本的には一義的なものです。栓抜きは、栓を抜くというただ一つの目的のために作られたものですし、包丁の目的は、食材を切ることです。
この世界には、そうして、多種多様な一義的な道具が溢れているわけですが、だからこそ、それを使いこなす身体の方は多義的です。人間の手は、それ一つで、包丁の柄を握ることもあれば、子供の頭を撫でることもあり、ひもを結ぶことも、ピアノを弾くこともあります。


義手や義足を「道具」として捉えるなら、目的に最適化された、一義的なものであるべきです。当然、機能もデザインもそれに奉仕します。
義足であれば、まず第一に、歩くこと。ところが、歩くという目的にさえ適っていれば十分かといえば、そうではありません。階段やハシゴを登るとか、正座するとか、踊るとか、泳ぐとか、あるいは、その美しさで人を魅了するとか、好きな人に膝枕をしてあげるとか、足は本来、非常に多義的です。
この人間が製作するものでありながら、一義的な道具ではなく、多義的な身体でなければならないというところに、義足の課題があります。


これは、義足に限らず、ロボットの身体についても言えます。自動車の組み立て用ロボットは、見学に来た子供の頭を撫でたり、飛んでいる蚊を叩いたりすることはできません。ロボットの手足が、道具ではなく、身体であるためには、ポテンシャルとして、どれくらい多義性があるのかがカギになるでしょう。


『かたちだけの愛』で、女優を登場人物にしたのには、色々な理由があります。
女優の身体は、もし道具であるなら、「演技する」ということに一義化されるべきですが、その場合、模倣されるのは、多義的な誰かの身体です。その複雑さに面白さがありますが、同時に当然、身体である以上、それは常に、日常の中で、「演技する」こと以外のあらゆる目的に対して多義化します。
その際に、美が強く介在する人の多義化の仕方は独特です。そして、その多義化のあり方が、メディアを通じて、常に不特定多数の人に向けて可視化されている、というのもまた独特です。
スポーツ選手や女優といった人たちの恋愛スキャンダルには、同じ一つの身体が、他方では恋愛という目的も持っているという、当たり前と言えば当たり前のことに対する興奮が潜んでいます。
『かたちだけの愛』を「分人主義三部作」の最後に据えたのは、人格の分化と、この身体の多義化との重なり合いを、一度、丁寧に考えたかったからでした。
もちろん、「愛」がテーマですから、こんな無骨な書き方はしてませんが(笑)。


道具は一義的だと言うけれど、ガジェットは多義的じゃないかと言う意見は、正鵠を射ています。見方を変えれば、あれは、身体の多義性の反映です。
その意味では、電子書籍に特化した端末は一義的な道具ですが、iPadのように色んなことが出来るものは、その分、身体の多義性により対応しているとも言えそうです。それは同時に、分人化にも対応している、ということですが。