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恋愛と親子愛

気がつけば、もう2月。そして、今年に入って最初のブログの更新です。
『かたちだけの愛』は、お陰様で、たくさんの方に読んでいただき、色々な感想を聞かせていただいてます。
ありがとうございます!
初めての長篇恋愛小説、という謳い文句ですが、作品のテーマは「愛」です。特に、主人公の相良郁哉と叶世久美子(中村久美)との「愛」と、相良とその家族との「愛」は、比重としては、ほぼ同じくらいです。その二つの愛を同時に描きながら、恋愛であれ、親子愛であれ、いずれにも当てはまるような「愛」の定義を考えたかった、というのが、僕の意図でした。


30代半ばの主人公の愛を書こうとした時に、恋愛と親子愛とは、どうしても一緒に扱いたいテーマでした。
親子関係というのは様々で、うまくいっていれば何よりですが、そうでないことも勿論あります。
僕は同世代の人と話していて、うまくいかなかったという思いを抱えている人は、潜在的にかなり多い気がしています。


多くの人は、それでも普段は何事もなかったかのように生活しています。それはそれとして、自分なりに乗り越えていたり、あるいは本当に忘れていたりします。
それが、30代になって、社会的にも経済的にも、退職する親世代と力関係が逆転し始めると、実家の問題や介護のことなどを巡って、改めて、親と向き合い直さなければならなる。勿論、自分自身が家庭を持って、親の立場になる、ということもあります。
その時に、気にせずにいたはずの子供の頃の記憶が、意外な重さで蘇ってきて、心にわだかまってしまう。こちらがどんなに大人になろうとしても、親の方が理解してくれない、あるいは、昔のことなどすっりかり忘れてしまっている、それで今現在も、うまくいっていない。……
社会的、経済的に、定年を迎える親世代と、実際に立場が入れ替わっていればいいけれど、自分の生活もままならない状態でその年齢を迎えってしまう苦しさもあります。


僕が小説家として、先行世代から譲り受けたものの、まったくピンと来ない主題の一つに、「父殺し」の神話というのがあります。個人的に、僕の場合、父が早世していますから、実感が湧かないというのもありますが、そんな単純な神話では、今の時代、カタルシスを得られないのではないでしょうか。
社会が高齢化していくことはみんな分かってますし、私的にも公的にも、親世代との「和解」は必要です。それが不可能な時には、象徴的な「父殺し」などよりも、関係の切断という選択肢の方が現実的でしょう。
僕は基本的に、子供の側から話を聴いていますし、親の言い分もあると思いますが、いずれにせよ、30代半ばというのは、失われたはずの記憶に、「幻痛」のように見舞われるタイミングなのではないかという気がします。


幼少期の親子関係が、成人後の恋愛観に大きな影響を及ぼす、という話は、実感として分かります。しかし、そこに相互に影響を及ぼし合う「つながり」があるのなら、恋愛がうまくいくことが親子愛を修復させ、親子愛の修復が恋愛をうまくいかせる、という可能性はあるはずです。
そこのところの相関性は、論理的に説明するのが難しく、だからこそ僕は、それを小説を通じてしか表現できないのですが。
今回の小説で一番骨を折ったのは、その複雑な関係の線を、いかにきれいに描くか、というところでした。
一度目に読んだ時には、恋愛やデザインの話が目についたけど、二度目に読んだ時には、親子の話が心に残ったという感想を多く耳にしました。それは、作者にとってすごく嬉しいことです。


無論、大人の恋愛の問題が、何でも幼少期の親子関係に帰せられるわけもなく、久美子の家族の方は、むしろ至って平穏です。彼女の問題は、むしろ彼女という人間の「かたち」そのものです。

「世界観」と「世界感」


『かたちだけの愛』の刊行記念サイン会には、たくさんの方にお越しいただき、ありがとうございました!
既に読了された方からの感想も、続々と届いておりまして、うれしい限りです。


僕の小説は、テーマには連続性がありますが、作風は一作ごとにかなり違います。インタヴューでもよくそのことを質問されますが、重要なのは、「世界感」だと思います。今日はそんなようなお話です。


「世界観」というのは、誰それの「世界観」が好き、とよく言うように、作者のものの見方、世界のイメージです。もちろん、読者にもそれぞれの世界観がありますから、「あの作家は自分と世界観が近い」というような言い方が出来ます。あえて言えば、作者の思想です。


それに対して、「世界感」(造語です)とは、作品が自律した一つの「世界」として受け止められる感覚のことです。その意味では、思想と言うよりは、表現上の問題です。
「世界観」の表現が「世界感」とも言えます。
「世界観」は面白いのに「世界感」に乏しい、というのは、考えていること、持っているイメージは面白いのに、表現として、それが固有の「世界」であると感じられるほど完成されていない、ということです。


「世界感」を生み出す上で重要なのは、当然、文体ですが、僕の場合、その作品に相応しい音楽が聞こえてくると、目指すべき雰囲気が見えてくることが多いです。
『葬送』では当然ショパン、『かたちだけの愛』は、ラヴェルのピアノ協奏曲第2楽章で、『決壊』では、執筆中ずっと、騒音のような完全な無音を聴いていました。


もう一つは、扱われているテーマと個々の表現とが、発想において同根だということです。
例えば、『葬送』では、ショパンの音楽とショパンの人物像とが合致するように気を遣いましたが、その際に、ショパンの音楽の#や♭といった変記号を少しずつ増やしていきながら、気がつけばものすごく遠い転調がなされているという特徴に注目して、彼の気分の移ろいを表現する場面で応用しました。
明るく、楽しそうな場面から、真反対の、暗く孤独な思索へと至る過程で、少しずつ異質な言葉を織り込んでゆくような方法です。それから、彼の音楽の装飾音だとか、レガートだとか、そういうことを全体に意識しました。


また、他方でドラクロワも主人公ですから、彼の作品の構図を、小説全体の構造と重ねたり、印象派の先駆けとなるようなその色彩理論を心理描写に応用したりしました。
複雑な心理を描写する際に、複数の色(心理)を混ぜ合わせて、鮮やかさを殺いでしまう、曖昧模糊とした減色混合的な描写ではなく、加色混合的に、個々の心理を一つずつきれいに分けて、明示的に、併置してゆく方法です。
(加色混合、減色混合については、非常にわかりやすいサイトを見つけました。
かなりゆるい感じですが、お暇な時にどうぞ。 http://www.krcom.co.jp/color-story/komoku1.html )


『かたちだけの愛』では、「陰翳礼讃」がテーマの一つになっていますので、場面毎の明暗のコントラストの付け方に気を遣いました。全体を俯瞰すると、明部と暗部とがよくわかると思います。
それから、人間と人間との関わり、一人の人間の中の複数の分人の相互作用が、「陰翳のあや」として可視化されるような描き方を工夫しました。
全体としては、やはり、愛することの「喜び」と「哀しさ」の「陰翳のあや」でしょうか。


こういう諸々を通じて、個々の作品の「世界感」が醸成されています。
まぁ、作者が試みていることがどれくらい効果的かは、厳密にはなかなかわかりません。ここに挙げたのはほんの一例で、その他にも、色んな工夫があります。それらが絡まり合って、ある作品の「世界感」に寄与しているのでしょう。
僕の小説に限らず、そんなようなことを気にしながら本を読んでみると、新しい発見もあると思います。


かたちだけの愛

かたちだけの愛

『かたちだけの愛』刊行記念サイン会のお知らせ


いよいよ、『かたちだけの愛』(中央公論新社)の刊行も迫ってきました。

かたちだけの愛

かたちだけの愛


で、今回は、池袋のリブロでサイン会を行います。
日時:12月15日(水) 午後6時30分〜
会場:西武池袋本店別館地下1階リブロ児童書前特設会場
お問合せ:リブロ池袋本店 03-5949-2910

詳しくは、こちらをご覧下さい。


http://www.libro.jp/news/#entry_id_1571


今年はショパン関連のイヴェントなどで皆さんにお目にかかる機会も多かったのですが、新刊を買って下さった方一人一人と、直接にお会いするのはまた格別のことです。
お時間のある方は、どうぞ、お立ち寄り下さい。
楽しみにしています。

新作長篇小説『かたちだけの愛』は、12月10日刊行です!

早いものでもう師走です。
今年は、ショパン生誕200年、三島由紀夫没後40年ということで、敬愛する二人の芸術家に関する仕事に多く携わりましたが、もちろん、本業をおろそかにしていたわけではありません。
その成果が、12月10日に刊行される『かたちだけの愛』です。


かたちだけの愛

かたちだけの愛


この小説は読売新聞の夕刊に昨年の夏から一年弱に亘って連載されたもので、単行本化にあたっては、大幅に改稿しました。連載をお読み下さっていた方は、その変化に驚かれると思います。もちろん、格段に良くなっています。


今回の小説のテーマは、ズバリ「愛」です。
愛とは、結局のところ、何なのか?
現代人が信じることの出来る愛とは、どういうかたちのものなのか?
  

物語は、交通事故で片足を切断した女優と、たまたまその現場に遭遇し、彼女のために、「本物の足以上に美しい義足」を作ろうとするデザイナーとの関係を中心に展開します。
彼らに関わる多くの人物たちが、歪なものから健気なものまで、醜いものから美しいものまで、様々なかたちの愛を生きています。


作者として、一番力を入れたのは、もちろん「恋愛」であり、もう一つは「親子愛」です。
主人公が最後に辿り着く心境は、そのいずれであっても当てはまるような、愛のひとつの定義です。それは、『決壊』、『ドーン』を経て、この数年、ずっと僕自身が考え続けてきたことであり、プロセスはものすごく複雑でしたが、導き出された答えは、非常にシンプルなものです。


『決壊』執筆後、「じゃあ、一体、どうやって生きていけばいいのか?」という声は、多くの読者から寄せられました。
それは、僕自身にとっても深刻な課題であり、『ドーン』では、個人のアイデンティティの問題を考え、この『かたちだけの愛』では、人と人とが共に生きていくこと、愛し合うことの意味を考えました。
「分人」という発想が、やはり一つのきっかけになっていますので、『ドーン』を読まれてない方は、昨年10月11日のプログの後半部分をご一読いただけると、わかりやすいと思います。http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20091011 
僕の第三期の仕事は、『決壊』、『ドーン』、『かたちだけの愛』で一区切りついた感じですが、あえてまとめるなら、「分人主義三部作」ということになるのかもしれません。次作の準備は既に進めていますが、それはまた、新しい段階です。


この「愛」の物語を下支えしているのは、「デザイン」の話です。主人公の職業であり、昨今、あらゆる場面で使用されている(されすぎている?)言葉ですが、その発想は、人間の体について、モノとの関係について、人と人との関係について考える上で、多くのヒントを与えてくれます。小説自体のデザインにも、今回は特に気をつかいました。
00年代はネットの世界が飛躍的に発展した時代でしたが、その反動というか、この作品では、もう一度、フィジカルな、目で見て、手で触れられる世界に関心が向いています。


そして、そのこととも関連しますが、文学としては、この作品は、三島ではなく、谷崎に多くを負っています。それもまた、「生きる」ということを考えている今の僕の一つの変化かもしれません。


色々と書きましたが、何と言っても「恋愛小説」ですから、是非その「気分」に浸って、時にささやかで、時にダイナミックな感情の動きを楽しんで下さい!


なお、この小説は、12月10日に紙の本と同時に、シャープのガラパゴスで電子書籍としても刊行されます。いよいよ、紙と電子の同時刊行時代に突入です!


最後に例によって、目次を紹介しておきます。

1 雨の中の出会い
2 “美脚の女王”
3 ミューミの理解者
4 《陰翳礼讃》
5 母と向かい合う時
6 病室での再会
7 幻痛―ファントム・ペイン
8 断端
9 普通の人間
10 不気味の谷
11 真相
12 呼び名
13 すべては憧れから
14 「天罰よ!」
15 小さな暗闇に灯る光
16 恋と愛の狭間で
17 帰郷
18 再会
19 告白
20 非常事態
21 奪還劇
22 目的は?
23 愛の秘密
24 隠されていたこと
25 軽蔑
26 Passion
27 旅立ち
28 甘美な悪夢
29 愛のかたち

絵画とグラフィック・アートの違い


どうも、ご無沙汰してます。
最近、「ツイッターばかりやってないで、たまには、ブログも更新して下さい!」と色んな人に言われます。すみません。。。
あまりに久しぶりなので、何を書こうかと考えていたのですが、丁度、コンセプター・坂井直樹さんが、僕が慶応SFCで講演した内容について、ブログで触れられてましたので、その話を少し書いてみます。


坂井さんのブログは、こちらです。

http://sakainaoki.blogspot.com/2010/10/sfc-40-hiranok-1975-httpd.html

僕の話の回以外も、毎回非常に面白いので、前後も読んでみて下さい。


で、話題は、絵画とグラフィック・アート(ポスターや本の装幀など)は、根本的に何が違うのか、ということです。


基本的に、絵画は額縁(フレーム)の外側にまで広がっていく世界、グラフィック・アートは、フレームの内部で完結する世界です。
坂井さんが例に挙げられている2つの作品を見ていても、これは感じられるでしょうが、より分かりやすい例として、僕がこの問題を考えるきっかけとなったロトチェンコのポスターを画像検索してみてください。

分かりやすいのはこれです。

http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/rodchenko/images/image-2.jpg


絵もポスターも、ある平面の全体を、色や形といった要素の配置で満たすわけですが、絵の場合、たとえば人間と地面と空を描く時、そのそれぞれの大きさの比率や向き、色には、自律的な秩序があります。描かれた世界には、有機的で、内的な必然的関係性が認められます。
たとえば、ミレーの『落ち穂拾い』を見て、どうして上半分を青ではなくて紫に塗らなかったのかとか、どうして真ん中の横線を波打たせなかったのかとか、どうして真ん中の人間の頭を、それぞれまったく違う大きさで描かなかったのかと、疑問に思う人はいないはずです。なぜなら、現実の世界で、空は青く、水平線はまっすぐで、人間の頭は、大体同じくらいの大きさだと、みんな知っているからです。


先ほど、画面構成に「内的な必然的関係性」が認められると書きましたが、それは逆説的な表現で、絵画の画面構成の必然性は、実際は、フレームの「外」にある世界そのものの秩序に依拠しています。描かれるのは、フレームがあろうとなかろうと存在している、世界のある一部分であり、そのトリミングの結果です。より正確に言えば、そうである「かのように」描かれています。だからこそ、絵画は、フレームを越えた広がりを持つのです。


しかし、グラフィック・アートは違います。
グラフィック・アートの画面を構成する要素は、個々に関連性を持たない、雑多な要素です。
まず、一番の違いは文字ですが、それとその他の色や形といった要素との必然的関係性など当然ありません。
坂井さんが例に挙げられているサイトウマコトさんの作品でもよく分かりますが、文字をあそこに、あの大きさで配置しなければならない必然性はありません。上でも下でも良かったし、真ん中でも良いのです。同様に、背景の色は、赤や黄色の可能性もあったし、新聞のカブトはもっと大きくても、小さくても良かったのです。あるいは、人形が斜めに傾いていても、ひっくり返っていても、別にいいのです。
では、なぜこのようになっているのでしょうか? それは、まず最初にこの長方形のフレームがあって、その四辺との関係性から、各要素の形と、面積の比率、配置が決定されているからです(この辺は、さっきのロトチェンコのポスターの方が分かりやすいです)。
それ故に、この作品の各要素の構成秩序は、フレームがなくなった瞬間に、必然性を失ってしまいます。新聞紙のカブトに対して、この大きさの文字というは、我々の日常世界では、特別な関係を持っていません。この画面構成が依拠すべき秩序は、フレームの外側にはないのです。だからこそ、グラフィック・アートはフレーム内の宇宙なのです。

ややこしい書き方になりましたが、単純に、絵を描こう、ポスターを描こうと考えてみれば、フレームが先か、後かは実感として分かります。


もちろん、古典主義絵画を例に挙げるまでもなく、絵だって、フレームとの関係で、描かれているものの大きさや配置が決まっているじゃないかと言うかもしれませんが、「各要素間の関係性」は、フレームとの相関関係だけでは決して完結しません。基本的には、フレーム外の秩序が大きく関わっています。


僕がこういうことを考えるようになったのは、今年の春に庭園美術館でロトチェンコ展を見た時です。
もともと、僕は、個人的にも親しい横尾忠則さんのお仕事に興味があって、絵画とグラフィック・アートは、何が根本的に違うのか、ずっと考えてました。もちろん、違いは幾らでもありますし、共通点を考える方がおかしいという人もいるでしょう。
それはともかく、ロトチェンコは断然、ポスターが素晴らしいのですが、実は絵も結構描いています。しかし、彼の場合、絵を見ていても、なんとなく、デザインっぽく見えます。それは、なぜなのかなと考えていたのですが、どうも彼は、絵を描く時にも、フレームから発想して構成を決定しているようです。


これとまったく逆なのが、カンディンスキーです。
カンディンスキーの絵は、どんなに幾何学的で、抽象的であっても、決してポスターには見えません。まさしく「絵」です。
抽象画をはじめた頃、カンディンスキーは、「なんでここに、この大きさで円を描いているのか?」とか、「なんでこの四角は、青く塗られてるのか?」と、散々、その必然性を質問されましたが、その時彼は、絶対に、「フレームが、こういう四角だから、全体の4分の1の大きさで、この円を描いて、……」というような説明をしませんでした。ロトチェンコなら、自作のポスターを説明するのに、当然、そう言ったでしょう。


カンディンスキーのユニークなところは、画面を構成する各要素の関係を、やはりフレーム外の根拠から説明しようとしたところです。それは、物理的な世界の秩序ではなく、人間の「心理」です。彼の「内的必然性」という言葉は、ここから出てきています(抽象画家がシュタイナーのような神秘主義に興味を持つのは、「心理」とはまた違った秩序をそこに見ているからです)。


有名な「抽象芸術論―芸術における精神的なもの―」だけでなく、是非、「点・線・面」をお読み下さい。
そこには、「水平線は、様々な方向へ平坦に広がりゆく、物を載せ、冷たい感じのする基線である」とか、「《左》に近づく―自由を求めて出る―のは、遠方を目指す運動」といった、線や面、点や色といった個々の画面構成要素についての人間の心理が、清々しいくらいきっぱりと(!)断言されています。
彼の完成期の抽象画には、一箇所たりとも適当な、即興的な要素がなく、全部、その必然的な関係性に於いて描かれているのです。だからこそ、彼の作品は、まさしく「絵」として、フレームの外側への広がりを感じさせますし、逆にロトチェンコのポスターとは違って、フレームとの相関関係で見れば、なんとなく、心許ない、不安定な感じを催させます。


非常に単純化した話ですので、むしろ絵画の方のフレームと画面構成要素との関係の説明に疑問を感じた方もいるとは思いますが、そういう方は、パノフスキーの『〈象徴形式〉としての遠近法』を読んでみて下さい。ダイナミックな弁証法が展開されています。


実のところ、こんなことを考えているのは、小説のデザインの問題につなげようとしているからなのですが、その話はまた、そのうち書くかも(?)しれません。
次はもっと早めに更新します。。。

イヴェントの情報


ショパン関連のイヴェントの情報です。
『葬送』第二部冒頭のショパンのコンサート・シーンは、あの小説の読みどころの一つで、それを再現したCDを先日発表したところですが、もうお楽しみいただけましたでしょうか?


ショパン:伝説のラスト・コンサート

ショパン:伝説のラスト・コンサート


で、今回はそれをライヴでやってしまおうという企画です。
神奈川公演と東京公演との二回、それぞれに宮谷理香さん、高橋多佳子さんをお迎えして、1848年2月16日のショパンのパリでの最後のコンサートを、時空を超えて(!)、皆さんと一緒に堪能します。
宮谷さん、高橋さんのファンは必聴ですが、僕は、『葬送』では描かれなかったショパンにまつわる色々な話や、ピアニストとの対談、『葬送』の一部朗読など、一般的なコンサートとは一味違った演出に参加します。
聴きたい話、朗読をして欲しい箇所などありましたら、ツイッターででも、HPのメール経由ででも、どうぞ、リクエストしてください。参考にさせていただいて、出来るだけお応えしたいと思います。


詳細は以下をご覧下さい。

                                                        • -

ショパン伝説のラスト・コンサート in Paris 1848.2.16


【横浜公演】 2010年9月25日(土) 午後5時30分開演
【東京公演】 2010年10月1日(金) 午後2時開演/午後6時30分開演(2回公演)


今年は世界で最も有名な作曲家、フレデリック・ショパンの生誕200年という記念年にあたり、数多くの演奏家による生誕200年記念コンサートが世界中で開催されています。
そこで特別企画の決定版として、パリのプレイエル・サロンで開催されたショパンの生涯最後の演奏会を再現する「ショパン伝説のラスト・コンサート in Paris 1848.2.16」を横浜、東京にて開催します。

ピアニストには、ショパン国際ピアノ・コンクールで入賞を果たした宮谷理香(横浜公演)、高橋多佳子(東京公演)を迎え、現存する資料をもとにプログラムを再現します。さらに芥川賞作家でショパンの生涯を描いた長編大作「葬送」の作家である平野啓一郎が、ラスト・コンサートの場面を朗読・解説し、観客をプレイエル・サロンへと導きます。


【概要】
横浜公演
日時:2010年9月25日(土)午後5時30分開演(午後5時開場)
会場:神奈川県立音楽堂
出演:平野啓一郎(朗読) 宮谷理香(ピアノ) 
   江口有香(ヴァイオリン) 江口心一(チェロ)
料金:S席 ¥4,500/A席 ¥3,500(税込・指定)
プレイガイド:tvkチケットカウンター 045-663-9999
       音楽堂チケットセンター 045-263-2255
       ぴあ、イープラス、ローソンチケットなど主要プレイガイド
主催:tvkテレビ神奈川)/スチュワード・コミュニケーションズ
協力:tvkコミュニケーションズ/EMIミュージック・ジャパン/新潮社
お問合せ:tvkチケットカウンター 045-663-9999


東京公演
日時:2010年10月1日(金)午後2時開演(午後1時30分開場)
              午後6時30分開演(午後6時開場)
会場:HAKUJU HALL(富ヶ谷)
出演:平野啓一郎(朗読) 高橋多佳子(ピアノ) 
   崎谷直人(ヴァイオリン) 新倉瞳(チェロ)
料金:¥5,500(税込・指定)
プレイガイド:チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード110-400) 
      イープラス http://eplus.jp
      ローソンチケット 0570-08-4003(Lコード38199)
      HAKUJU HALLチケットセンター 03-5478-8700 火〜土(祝日・休館日を除く)   
       ミリオンコンサート協会 03-3501-5638
主催:「ショパン伝説のラスト・コンサートin Paris 1848.2.16」実行委員会 
共催:HAKUJU HALL
協力:EMIミュージック・ジャパン/新潮社
お問合せ:ミリオンコンサート協会 03-3501-5638

時々思い出すこと


今年はショパン生誕200周年というわけで、年明けからあちこちで色んなことに関わっていますが、『葬送』というと、今でも思い出すことがあります。


まだ文庫本が出る前でしたから、多分7年前くらいのことです。
とある女性から手紙をもらったのですが、その中にこんなことが書かれていました。
自分の夫はガンで、余命数ヶ月と宣告されている。その夫が、『葬送』が大好きで、残された時間をもう一度、『葬送』を読むことに費やしたいというので、大学生の娘と、毎日交代で、病室で朗読してあげている、と。
作家として、こんなに光栄なことはなく、勿論、うれしかったのですが、どんなに愛着のある自信作であったとしても、自分の書いたものにそれほどの価値があるのだろうかと、正直、深く考え込みました。ご本人の意志とは言え、もっと他のことに時間を使ってもらった方が良いのではないか、と。


今でこそ、ツイッターで読者とも気軽にやりとりをしますが、当時はそういうことがまったく出来なかったので、読者からもらう手紙に返事を書いたことはほとんどありませんでした。が、その女性には、お見舞いの手紙を書きました。


それから、数週間に一度くらいのペースで手紙をもらって、ご主人の病状などを伺っていましたが、最初に書かれていた余命の月日が丁度経った頃に、ぱったりと手紙は来なくなって、そのまま連絡は絶えてしまいました。


あれ以来、折に触れて、このことを思い出します。
小説というのは、自分にとって、あるいは人にとって何なのかと。
自分の書くものになんて、何の価値もないと言ってしまえば気は楽ですが、それでも人が、人生の中の、必ずしも無価値ではない瞬間に、読むかもしれない可能性を与えられているのが小説です。
死の間際であろうとなかろうと、一冊の小説が読まれるためには、誰かの人生の何時間か、何日かがそのために費やされなければならず、それに対して、責任を取るという考え方は必ずしも適当でないにしても、無頓着ではいられないと僕は思います。
この世に生まれ落ちた瞬間から、その後に生きる時間はすべて余命だと考えるなら、大げさな言い方ですが、小説はいつでも、読者の余命を費やすのに値するのかどうかと問われていることになります。他にもっと有意義なことがあるのではないかと。

勿論、小説家としての僕は、僕の小説を読むことが、ある人の人生に於ける最高の瞬間となるようなことを夢見ています。自分の小説を読んでいる時に、ファウストのように、「時間よ止まれ、お前はいかにも美しいから」と読者が心底感じるのであれば、それ以上、何をか望まん、です。
病床で、死を目前にしている人が、僕の小説を読んでいると知った時、ただありがとうと一言礼を言うだけで、何も心煩わされることのないような傑作を書くというのは、その意味で、一つの究極の夢かもしれません。が、その究極の夢を夢見ることには、どこかしら、破廉恥な感じもあります。


僕の中には、小説体験こそが人生の最高の喜びだと信じる一面と、人生には小説を読むことなんかよりももっとずっと重要なことがあるはずだと思う一面とが、常に矛盾して同居しています。
人生を凌駕するような小説を夢想しない小説家を僕は信じませんが、小説が人生を凌駕することに痛切な懐疑を抱かないような小説家も、僕は同様に信じません。
結局、読書に費やす時間とそれ以外のことに費やす時間との比率の問題ですが、余命が短くなればなるほど、両者は鋭く角を突き合わせるでしょう。


死の床にある人を、本当に慰めるような小説を書きたいとは、僕も思います。しかし同時に、小説家はそんなことを考えるべきなんだろうかとも思います。
今の僕の人生は、完全に小説とともにありますが、自分自身が死を目前に控えた時、残された時間で、誰かの小説を読みたいと思うのかどうか。あるいは、読むよりも書きたいと思うのか。


何の結論にも至らない話ですが、最近またよく考えることです。